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アドルフ・フレドリク (スウェーデン王) : ミニ英和和英辞書
アドルフ・フレドリク (スウェーデン王)[おう]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)
: [おう]
  1. (n,n-suf) (1) king 2. ruler 3. sovereign 4. monarch 5. (2) king (for senior player) (shogi) 

アドルフ・フレドリク (スウェーデン王) : ウィキペディア日本語版
アドルフ・フレドリク (スウェーデン王)[おう]

アドルフ・フレドリク(Adolf Fredrik, 1710年5月14日 - 1771年2月12日)は、スウェーデン王国ホルシュタイン=ゴットルプ朝の初代国王(在位:1751年 - 1771年)。
== 生涯 ==
アドルフ・フレドリクは、ホルシュタイン=ゴットルプ家の公子でリューベック領主司教クリスティアン・アウグストの子で、母はバーデン=ドゥルラハ辺境伯フリードリヒ7世の娘アルベルティーネ・フリーデリケ(1682年 - 1755年)である。母方の曾祖母にカール10世の姉クリスティーナ・マグダレーネがいる。
カール・アウグストはリューベック領主司教に就任したが早世、弟フレデリク・アウグスト(フリードリヒ・アウグスト1世)はアドルフ・フレドリクの死後に初代オルデンブルク公となった。また、姪で妹ヨハンナ・エリーザベトの娘ゾフィー・アウグスタ・フレデリーケは、アドルフ・フレドリクの在位中にロシア皇后、さらにロシア皇帝となったエカチェリーナ2世である。従兄のカール・フリードリヒの子ピョートル3世もロシア皇帝となっている。
クリスティアン・アウグストは、スウェーデン王カール12世外戚である〔
カール12世の祖母ヘトヴィヒ・エレオノーラはホルシュタイン=ゴットルプ家出身でクリスティアン・アウグストの父方の伯母に当たる。また、カール12世の母でデンマーク王女のウルリカ・エレオノーラはクリスティアン・アウグストの母方の叔母に当たる。〕
という立場を利用して、ロシア帝国との大北方戦争終結のために和解交渉を主導し、1721年ニスタット条約に調印している。クリスティアン・アウグスト一派はホルシュタイン派と言われ、親ロシア的であったが、1720年にスウェーデン王に即位するフレドリク1世を中心としたヘッセン派は親西欧的であり、両派の対立は大北方戦争後のスウェーデンの政治に強く影響を及ぼした。スウェーデンは弱体化し、絶対王政は廃止され、有力貴族によって政治が行なわれた。以後のスウェーデンでは、メッソナ党ハッタナ党が政治を牛耳り、互いに争った。この両派は欧州列強から資金援助を受けていた。ハッタナ党はプロイセンフランスから資金援助を受けていた親西欧派であり、メッソナ党はロシアから資金援助を受けていた親ロシア派であった。この時代のスウェーデンは「自由の時代」ではあったが、没落して列強の傀儡の状態に陥っていたのである。
アドルフ・フレドリクは1727年、兄カール・アウグストの早世でリューベック領主司教に就任したが1750年に弟のフレデリク・アウグストに譲位、翌1751年、フレドリク1世の死去にともなってスウェーデン王に即位した。これはハッタナ党の宿願であった。政治はこのハッタナ党が握り、国王は全くの無力な存在であった。アドルフ・フレドリクはプロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム1世の娘でフリードリヒ2世の妹ルイーゼ・ウルリーケ(ロヴィーサ・ウルリカ)1744年に結婚しており、グスタフ3世カール13世らをもうけていた。ロヴィーサは王権強化をもくろみ、夫の即位後間もなくクーデターを企てたが失敗し、アドルフ・フレドリクもロヴィーサと共に議会から厳しく警告された。アドルフ・フレドリクは、王妃ロヴィーサに主導権を握られ、自らの王権を行使出来ず、国政にも関与する事も出来なかった。彼に出来た事は、リンネなど功績のあった人物を貴族に叙す位であった。
ハッタナ党はフランスから資金援助を受けていたため、七年戦争でフランス側に与して参戦したが、敗戦のような形で戦争が終結したため、財政難を招いた。1765年にハッタナ党は失脚し、代わってメッソナ党が政権を握った。メッソナ党は改革派であったが、政策面ではハッタナ党とは大同小異であった。しかしメッソナ党はロシアからの資金援助を受けていたため、ロシアから内政干渉を受け、スウェーデンの主権は無きに等しい状態に陥った。内政面ではある程度成果を上げることに成功したが、経済不況をもたらして1769年に失脚し、ハッタナ党が政権を奪回した。しかし両派の対立抗争は激しさを増し、スウェーデンの政治は腐敗し、堕落していった。
この時代のスウェーデンの国際関係はままならなかった。空前の国力を持つに至ったロシア帝国はスウェーデンを従属国の様に扱い、デンマークもロシアと友好関係を有し、虎視眈々とスウェーデンの分割を狙っていた。国内は混乱を極め、王権は無きに等しく、自由の時代とは裏返せば「危機の時代」であった。
1771年にアドルフ・フレドリクが崩御すると、スウェーデンの「自由の時代」も終局を迎える。国民は新しい時代を欲し、王権の復活を切望していた。このような時代背景の下に、息子グスタフ3世は即位した。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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